2014年。はじめて劇団四季のウィキッドを見て以来、その魅力に取りつかれました。
それは作品だけにとどまらず「舞台芸術」そのものに私を夢中にさせ、その結果、晴れて舞台オタクが完成(笑)
ウィキッドは「舞台を観るその瞬間の興奮」だけでなく、「キャストが変わることの面白さ、奥深さ」「作品の背景やセリフから自分だけの解釈や考察をすることの楽しさ」も教えてくれました。
最高です。
前回の東京公演の初観劇から、リピートを繰り返し、オズの魔法使いを読み、原作を読み、英語の歌詞を訳して・・・、そうやって作品を知りながら観劇をするたびに、新しい解釈や考察が生まれ・・・
それが本当~~~に楽しかった!!
のですがッッ!!!
何回観ても、ど~~~~しても分からない事がひとつ。ずっと、ずっと不思議で、ずっとずっと、胸のなかに引っかかっていました。
そう!
楽曲As Long As You’re Mine(二人は永遠に)の中で、
なぜ浅利先生は「for the first time, I feel wicked」を
「生まれて初めて、幸せ」と訳したのか。
今回の東京再演、9年ぶりにウィキッドを観てようやく自分なりの納得する答えが出せました。非常に興奮しております!笑
この先解釈が変わることもあるかもしれませんが、現状のひとつの答えとして書き残しておこうと思います。
日本語訳の可能性と限界
まず前提として、海外ミュージカルを日本語に翻訳する難しさがありますよね。
全てのミュージカルにおいて言えることですが、ウィキッドはとりわけ「繊細」で「複雑」な様です。 登場人物の表を裏を巧みに表現した「台詞」や「歌詞」の全ての要素を、日本語で伝えきるのは至難の業(パンフレットには演出で補う必要があった、と書かれていました)。
特に歌われるミュージカルナンバーたちは、音数の制限もあるのでより難易度があがります。
日本語版の歌詞を聴いた後に、英語版の歌詞を翻訳してみたら
「えぇーー!!なんか結構ちがう事言ってない!?」
「こっちの方が好きなんだけどなぁ」と思う事もザラです(笑)
ただ、ウィキッドのシナリオと台詞はものすごく多面的に見えるようにできているので、英語の歌詞を知って、日本語の新しいニュアンスに気付かされる、ということも起こります。
ウィキッドの複雑で余白のある物語は、一度や二度観たくらいでは「どういうこと?」「え?なんで?」「それってどーゆー気持ち!??」
みたいな疑問が沢山残りますからね(笑)
日本語だからこそ表現されるニュアンスや意図がある一方で、原作舞台の複雑さや巧妙さが伝わり切らないもどかしさが、より色濃くでてしまうのがウィキッドという作品なのではないでしょうか。
そんな前提がある上で、「日本語版」と「英語版」の歌詞を見比べるのは、めちゃくちゃに面白いです。
ウィキッド沼に落ちた人なら、自分で訳してみたり、英語が堪能な方のブログを調べたり…、一度はしているはずですよねッ!!!(決めつけ)
日本語版ならではの良さを感じつつも、どのナンバーにもある程度「あぁ…、もったいない」と感じてしまう部分が多い、というのが実際のところだと思います。
中でも、ファンの中で一番気になる部分は「 As Long As You’re Mine(二人は永遠に)」のラストシーンに出てくる
「生まれて初めて、幸せ」
という、歌詞(セリフ)ではないでしょうか。
問題の歌詞
かくいう私も、9年前この問題に殺されかけた一人です(超大げさ)
問題の歌詞は楽曲「二人は永遠に」で、二人が愛を歌い合った最後。
フィエロがエルファバにキスをしようとすると、エルファバはハッとして顔を背けます。
それに対してフィエロが「What is it?」=「どうしたんだい?」と聞くと、エルファバが以下の様に返事をします。
日本語で直訳すると
生まれてはじめて、「ウィキッド」な気分。
といった感じです。自分が悪い事をしている意識がありながら、喜びに抗えないようなエルファバの複雑な心境を、タイトルである「ウィキッド」とかけたあまりにもクレバーな歌詞ですよね。
何より、本当は悪い魔女ではなかったエルファバ自身が、自分の事を悪い魔女だと表現する重要なシーンです。
原文の意味や歌詞を知ったとき、あまりの素晴らしさに震えました。
て、て、て、て、てんさ~~~~~~~~~~~~~い!!!!!!!!!!Σ(゚Д゚)!!!!!!!!!
ところが日本語版では
生まれて初めて、幸せ。
と、翻訳されています。
「なんでやね~~~~~ん!!!!」
これじゃあ、ただフィエロに愛されて幸せなエルファバになっちゃうよぉ。
あ~、なんて勿体ない事を!!
他のどんな歌詞が許せても、お前だけはダメだ。
もっと他にあったでしょ!!
って思ってました。
ただ、じゃあ他に何にしたら良いだろうか。どんな言葉が合うだろうか…と考えても
私の空っぽの脳みそに藁を詰めたくらいじゃ思いつきません。
なにより、曲がスッと消えていく余韻に「しあわせ」の4文字が語感的にはものすごいハマってるんですよね。
この「罪悪感」のような気持ちを長々と説明するように言葉を並べてしまったら、それはそれで曲やシーンとしての美しさが損なわれてしまう気がする…。
・・・ほなしゃーないか。
でも何か違~う!!!
と考えていたのですが、疑問はいつからか
なぜ故・浅利慶太先生は
「幸せ」という言葉を使ったんだろう…
になりました。
だってこの一文だけで考えたら「幸せ」に該当する要素はないわけですし、何よりあの劇団四季の浅利慶太が、こんなに安直に言葉をハメるだろうか…。
浅利先生と劇団四季文芸部はいったいどういう意図でここに
「しあわせ」の4文字を置いたのか・・・。
何度観ても答えは出ないまま、東京公演は千秋楽を迎えました。
次に公演が決まった場所は札幌。
私の中の「なんで「幸せ」にしたの?」は消え去り
「札幌行きたすぎる!!!!!!」に。
そして札幌も千秋楽を迎え、ここから闇に生きる9年間が始まります。
こうなったら「なんで幸せにしたの?」とか
もうほんとどうでも良い。
とにかく観たい。再演してくれ。笑
そうやって忘れ去られた「生まれて初めて、幸せ」を
劇場で9年ぶりに聞いたら、なんと自分なりの最適解が降ってきたんです。
再演の魔法かな?
なぜ「幸せ」という言葉を使ったのか
まず結論から言うと、この時、エルファバが感じた感情は「幸せ」ではない。間違いなく、もっと複雑です。だからこそ、浅利先生はあえて「幸せ」という言葉を使ったのではないでしょうか。
「幸せ」じゃないから「幸せ」と言わせたのです。
どういうことか説明しますね。
そもそもウィキッドに登場する人物の中で本当に幸せなやつなんているのでしょうか(笑)
物語の二幕ではエルファバ、グリンダ、フィエロがそれぞれ「幸せ」と言う言葉を口にしています。
「今、私は幸せ」
「僕はいつだって幸せさ」
「生まれて初めて、幸せ」
はい。全部ウソやーーーー!!!!!ってことです(笑)
グリンダは「Thanks Goodness」の中でみんなの憧れとして
人々に愛されるという望みが叶ったことを歌います。
でも、本当はフィエロの気持ちが自分にないことを感じていたり、
大切な友達の悪口を否定できないことにモヤモヤとしています。
その違和感をかき消すように、望みが叶って幸せなんだ…と自分に言い聞かせるように歌います。曲のフィナーレに向かう前のグリンダの今にも泣きだしそうな震え声が苦しい。
つまりグリンダは、
みんなに愛され、人気者になる という本来の願いを叶えて幸せ。これは本当だけど一方で、望まない過程や、本当に愛する人からの愛がなく苦しい。
それを「幸せ」と言っているのです。
フィエロの「僕はいつだって幸せさ」はどうでしょうか。
この台詞は、探し求めているエルファバがなかなか見つからない状況で、グリンダのために結婚を受け入れようとするフィエロの台詞です。
グリンダから「私と結婚したらあなたも幸せになれるか」と聞かれて、フィエロは「僕はいつだって幸せさ」と答えます。
こんなん絶対ウソですよね(笑)
エルファバと出会う前の「頭が空っぽ」のフィエロなら、その台詞を信じ込むことが出来たと思いますが、今の彼の幸せは全く別のところにあることは確実です。
この台詞の意図するところが
・グリンダに気を使ったものなのか
・エルファバが見つけて欲しくないと思っていることに不安を覚えてなのか
・いつか絶対に見つけると思いつつ、現状をごまかしているものなのか
は、また別の議題になってくるのでここではスルーします(笑)
(ここのねー、フィエロくんの立ち回りもねー、大いに考察の余地があって楽しいですよねー。【良い男】とも【ひどい男】とも受け取れるわけで。あー、罪な男、フィエロ。君についてはまた別の機会にw)
ただ、この時点で確実に「幸せ」ではないフィエロですが、恋とは別の感情でグリンダを大切にしたい気持ちもあることは間違いありません。
後にグリンダとエルファバの関係について気遣う描写もあったり。常に二人の関係をかき混ぜるのがフィエロですが、二人の友情が特別なものだと知っているのもフィエロかな・・・と思います。
話が逸れましたが、この時点でフィエロは自分の望みを叶えてはいません。
自分の望みを叶えるために自ら選び、本来望まないポジションに身を置いています。
エルファバを思う気持ちを止められず、自分にもグリンダにも嘘をつき続けるわけですから
「幸せ」ではない…ですよね。
ここまで来たら、エルファバも同じです。
ずっと心で求めてながら諦めてきた「人に愛されたい」という望み。
それが叶って、心の底から喜んだことは間違いありません。
でも、同時にグリンダを裏切ってしまう罪悪感、フィエロを危険に巻き込んでしまった申し訳なさに苦しみます。
そこには確かに自分を魔女と呼びたくなるような感情がある。自分を偽らずまっすぐにまっすぐに生きてきたエルファバがはじめて感じた感情ではないでしょうか。
望んだものを手に入れたはずなのに、心は晴れない。
つまり、ウィキッド二幕で、主要人物たちが発する「幸せ」はどれも超ハッピー☆な状態ではないんですよね。
結局、3人とも選択と行動のその先に望みを手にしながら、同時に痛みを感じている。
望んだのも選んだのも自分で、それは確かに手に入ったのに、同時に大切なものも失うんです。
だから、心の底で【幸せ】と【不幸】を同時に感じながら、半分は【自分に言い聞かせる】ように「幸せ」と言ったのだと思います。
浅利先生であれば、エルファバが心の底から幸せじゃないことなんて当然分かっているはずです。
エルファバが感じた沢山の感情の中から、フィエロに愛された嬉しさだけを強調して、「幸せ」と言わせたわけではなく、その幸せに痛みが伴ったから「幸せ」と言わせたのではないでしょうか。
中には二幕冒頭のグリンダの幸せが偽物の愛で、この時のエルファバの愛が本物の愛だから「幸せ」という言葉で対比している、と言う考え方もあると思います。
でも、私はそうは思いません。
みんな、同じなんです。グリンダも、エルファバも。そしてフィエロも。
自分が望んだもの、選んだ道の先に手に入れた幸せと、失ったものの痛みが存在するのです。
(だからこそ、ウィキッドという物語は切なくも美しいのですが…)
この物語、特に二幕の中ではそれを受け入れながらも、もがき苦しむキャラクターたちに【幸せ】と言わせているのですね。
(この物語の中で、単純で究極にハッピーになる人はいません。誰もが何かを手にして何かを失っています。割と全てを失った人もいますが…。 いるとすればそれは民衆かもしれませんが、彼らは何も考えずただ流されているだけなので、そこには本当の喜びも痛みもないように感じます)
もし、グリンダが二幕冒頭で「今、私は幸せ」だと歌わず、フィエロが「いつも幸せだ」と言わなければ、この曲のラストの「幸せ」は本当に薄っぺらいものになってしまった気がします。
でも、ウィキッドの中で表現される幸せは、喜びと痛みの混在なんです。
この幸せの意味に気付けた今、
この曲のラストに「生まれてはじめて、幸せ」以外の言葉は当てはまりません。
9年かけて、私はそう思いました。
どうでしょうか、浅利先生!!!
残念ながら、もう確かめようがありませんが(;;)
まぁね。もしかしたら単純に好きな男に好かれて、一瞬罪悪感あったけど、やっぱ幸せ~!と
思ったのかもしれませんけどねw
オタクは常々深読みしたくなる生き物なのでww
この先また、解釈が変わることもあるかもしれませんが、今はただしっとりと涙を流しながらフィエロとエルファバの愛のデュエットに耳を傾けることにします(^^)
追記
以前ウィキッドのキャッチコピーに「世界を敵にして、たった一人に愛されるか。たった一人を失って、世界に愛されるか」というものがありました。
当然前者はエルファバ、後者はグリンダのことです。
ありえんくらい素晴らしいキャッチコピーですよね。
今回二人が「幸せ」と発言しているシーンはまさに、
この状態を指していて、それは一幕で違う道を選んだ時に
お互いが望んだ生き方を体現しています。
このコピーを見ると、
改めて「幸せ」の状態も二人の対比になっているんだなぁと
感じますよね。
それは真実の愛とそうでない愛という対比ではなく、
選んだ人生、生き方が真逆…という対比です。
お互いに欲しかったものを手に入れて、もう片方を失うのです。
その状態でも「幸せ」というところが似たもの同士でもあるのでしょうが。
は~~~~~~~~~~。特大ため息。
深いぜ、ウィキッドの沼は。
余談ですが、ウィキッドのキャッチコピーは本当に
魅力的ですし、四季の作品の中でも
キャッチコピーが毎公演、大きく変わる演目でもあります。
それくらいメッセージ性強く、
受け取るものが1つのメッセージには収まらない
ところが魅力なんですよね。
It’s just– for the first time, I feel wicked.